間違いなくこれからの時代来るのは活動写真
(いや絶対来ると思うんだけどなあ)
うちの子が最近、ワンピースの映画で使われたAdoさん(ウタ)の歌う曲を気に入っている。特に「逆光」がお気に入りのようだ。次点で、「私は最強」と「新時代」。どこで知ったんだろうと思ったら、学校の行事で「私は最強」が使われたのだそうだ。
調べてみたら、中田ヤスタカさんをはじめ、日本で今いちばん勢いのあるクリエーターが製作に関わっているらしい。だからすごいってワケじゃないけど、やっぱりさすがだなあ、とも思う。時代の気分のツボを押さえた楽曲は、ハマる。いい。
先だって、高校生のバンドに参加してきたけど、スクールバンドでは定番のポップスメドレーにも、「新時代」が入っていた。あとは、Mrs.GreenAppleとか、水曜日のカンパネラとか。へーえ、今はこういう曲が流行ってるんだね。40代半ばのおじさんは、知らなかったよ。いい勉強になりました。
でも、僕たちが若い頃に聴いていた曲と全く違うかっていうと、そうでもないよなあ。すごく洗練されてはいるけど、基本的なスタイルに大きな違いはないように思う。そういや、中田ヤスタカさんだって、僕とほとんど歳が変わらない。同じ世代の、同じような音楽を聴いて育った人間が作ってるってワケだ。
じゃあ何が違うかって、うーんそうだな、内容的なことを言えば、さっきも書いたけど、確実に洗練されてる。ソツがない。とんがるべき部分が適切にとんがっているという点も含めて、ソツがない。
昔はもっと、アンバランスだったよなあ。良くも悪くも過剰なところがあったし、新しくメディアに出てくるジャンルは、幼く、拙かった。今はすべてが、成熟して、うまくまとめられている。それを非難してるわけじゃない。だってそれは、すごいことだ。作り手も聞き手も成長したってことだと思う。
しかし、成熟の先には、飽和と腐敗、そして革新(あるいは復古)が待っている。
水曜日のカンパネラの楽曲「エジソン」には、「蓄音機」と「活動写真」が歌詞に登場する。どちらも旧時代のメディアなわけだが、僕の個人的な感覚では、このデジタルメディアの成熟の果てには、生音回帰の時代がくるんじゃないか、なんて思っている。
知らんけど、というレベルの予想ではあるが、本当に、PAも何も通さない生の声、生の音が再評価される時代がまたくるんじゃないかな。だって、サウンドのもっている(ノイズも含めた)情報量が、全然ケタ違いじゃん。手の届く距離で、今鳴っている音に耳をそばだてる、という聴き方が、くるよ、絶対くる、ええと、まあ、たぶん。
音楽自体も、それに適したものが、くるね。もうほとんど先史時代のような音楽の在り方っていうのが、復活する。場所も、ライブハウスとかホールとかじゃなくってさ、どっかそのへんの浜辺とか埠頭とかキャンプ場とかだったりして。まあ分からないけど、でもそれって楽しそうじゃない? で、最初は演者とお客に別れてたのが、ノッてきたらお客も歌い出したりなんかして、もうフリージャズみたいな感じで、ヨロヘロヒレホロ~ってお祭り気分。
お巡りさんは怒るだろうなあ。「こら、こんなところで、こんな時間に歌っちゃイカン!」みたいに。あーでも、いや、どうだろう。コロナ前の話だけど、うちの近所の公園では早朝に、歌声の集いが開かれていて、おばあちゃんたちが唱歌みたいなのを一生懸命歌ってたっけ。あれ、別に怒られてなかったなあ。じゃあ、いいってことか。
音楽を、聴いて楽しむことが中心だっていう時代が、そろそろ終わってもいいんじゃないかなって、僕は思う。聴いて楽しむのも、もちろん楽しいし、それはそれでいいんだけど、プレイヤーもオーディエンスも一緒になって、そのボーダーラインがなくなって、祝祭的な空間を作り出す、っていう楽しみ方が、もちろん今もあるわけだけど、そのボーダーラインが完全に消えてしまうような、もはやプレイヤー=オーディエンスかつオーディエンス=プレイヤーであるような、そういう対話的で一体的な消費・・・というより行為・営為としての音楽が、新しく登場するというよりは、原点回帰として発生する、という想像は面白い。つまりね、カガイだよ、カガイ。歌会。表現の双方向化を極限まで推し進めた時、インタラクティヴゲームの果てに、結局は完全にフラットな現実がある、ってわけ。
ま、未来のことなんて、僕には正直わからないし、想像だよ、想像。でも、音楽だけじゃなくて、いま表現と呼ばれている人間の営為のすべてが、そんな風にフラットになっていったら、その世界はとても楽しいだろうな。
そんなことを考えた夏でした。