笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

パチンコ


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「君の人格の再統合には三つの段階が必要となる」オブライエンが言った。「学習、理解、そして受容だ。そろそろ第二段階に入るべきだろう」
 
「一九八四年」 ジョージ・オーウェル高橋和久(訳) 早川書房

 

 僕はパチンコを打たない。生涯、一度もパチンコ台の前に座ったことはない。しかし、たった一度だけ、パチンコ店に入ったことはある。三十年以上も前、まだ小学校に入るか入らないかの頃だ。
 近所に喫茶店をやっている友だちのうちがあって、僕は彼の家に遊びに行っていた。家というか、店の奥が居住スペースになっている昔風の店舗兼家屋で、僕たちは店のホールで遊んでいた。喫茶店に据え置きのインベーダーゲームで遊ぶ流行が下火になりかけた時代である。店にお客さんはほとんどいなかったので、僕たちは店のインベーダーゲームに興じていた。百円玉は、店のレジからいくらでも持ち出せたので、僕たちは何度インベーダーに殺されても、料金を気にせずに遊ぶことができた。
 しかし、レジの中に置いてある百円玉にも限りはある。多分その時、その子のおばあちゃんが店番をしていて、レジからお金を出して僕たちに渡してくれていたのだと思うけど、レジの中の硬貨の残りが心許なくなったのか「もう百円ないわ。母ちゃんパチ屋(パチンコ店)におるから、ちょっと行って、小銭もらっといで」と友人に命じた。友人は「一緒に行こうや」と僕の手を引き、店を飛び出した。そして、同じ商店街の中にある、おそらくは彼の母親の行きつけなのであろうパチンコ屋に駆け込んだ。
 強烈なたばこのにおいと、音響。
 当時、分煙などという言葉はまだなく、視界は白くけむって、三席向こうのパチンコに座っているのがオジサンだかオバサンだかの判別もできない。そして、マーチだか演歌だか得体の知れぬ大音量の音楽と、パチンコの機械が唸るジャンジャンバリバリとが、取っ組み合いの喧嘩をしていて、もはや大瀑布の滝壺のごとき静けさ。
 僕にとっては初めての経験で、今のところ最後の経験でもあるわけだけど、それはとにかく強烈な印象だった。僕は入口のところでもう圧倒されてしまい、ほとんど自失した。しかし、友人の方は慣れているらしく、たばこの煙の渦の向こうへと突進していくので、僕は見失うまいと必死に後を追った。友人は、通路を一つ選ぶと(たぶん、彼の母親はいつもその列で遊んでいたんだろう)、どんどん先へ進んでいく。僕も何とかついて行く。すると、煙のカーテンの向こうに、僕も見覚えのある彼の母親が、くわえたばこで無心に打ち続けている姿が見えた。
 僕は彼の母親のななめ後ろ一メートルに満たないところに立っていて、友人は母親の耳元で何かを怒鳴っていたが、僕には彼が何を言っているのかさっぱり聞こえなかった。しかし、彼の母親は彼の言葉を理解したらしく、ポケットから長財布を取り出してがま口を開けると、大量の銀貨を彼の小さな小節に握らせた。

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 音楽と、騒音と、あつくて濃いたばこの煙。それが僕のパチンコ屋の印象だ。あんなところで何時間も過ごしたり、そのために早朝から列を作って並んだりするのを僕はまったく理解できないが、熱中している当人たちにとっては、何でもない、いやむしろそれさえ必然であるのかもしれない。
 習慣とはおそろしい。このコロナ騒動の最中でさえ、パチンコ店は営業をつづけ、パチンコに熱狂する人たちがあの過密な空間に殺到したのだから。もちろん、歓迎できることではないと思う。しかしその一方で、人間ならひとつやふたつ、どうしてもやめられない悪習があるものだとも思う。酒、たばこ、麻雀みたいに、どちらかと言えば社会的に鼻つまみなことがやめられない人もあるだろうし、ワーカホリックみたいに本当は労働は賛美されるべきことなはずなのにちょっと過剰であるために眉をひそめられている人もいるだろう。
 過ぎたるは猶及ばざるが如し。中庸を以て尊しと為す。大人なら毒気のものに親しむのも嗜みのうちだが、必要な時にそれと距離をとることができるのも大人の慎みというものだ。毒は付き合い方を間違えると身を亡ぼす。どうしても無理? うん、まあ、その気持ちも分かるんだけど、でもほどほどにね。

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