笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

暖冬でも倦怠感。

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 この冬は暖冬だった。
 何を根拠に僕がそんなことを言うかというと、ガス代の請求書だ。去年よりも、ガスの使用量が少ない。そういや、床暖房なんて全然使わなかったなあ。何回か使ったけど・・・でも、ほとんど使わずに済ませた。カセットコンロ用のガスボンベを使うポータブルのガスストーブも、箱に仕舞ったままである。この冬は、暖かかった。間違いない。

 僕たち都市生活者にとっては、暖冬は歓迎すべきことである。そりゃあ、ひどく寒い冬よりは、ほどほどの寒さの方が有り難い。暖房費は安くすむし、朝に蒲団から出るハードルも低い。しかし、寒さが出来不出来に影響のでる野菜を育てている農家さんや、積雪をあてにしている仕事に就いている人たちにとっては死活問題だろう。
 反対に極端に冷え込む冬もまた困りものだが、しかし、冬は冬らしい冷え込みをするのが、一番いい。冬は冬らしくあるべきだ。

 で、この冬は気候としてはあまりタフではなかったのに、それでも、季節の変わり目になると僕の体は不調を訴えてくる。
 2月に入ってからずっと倦怠感が続き、月末には風邪までひいた。1月が、疲労を蓄積しながらもわりと好調だっただけに落差が大きく、その分、辛く感じる。ブレインフォグもひどい。こうやってキーボードに向かっていても、全然言葉が出てこない。
 ま、そんなときは無理しないに限る。写真でも撮り歩いて、体を動かしながらやり過ごそう。

チロルチョコ

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 妻が、近所の大型スーパーの客寄せイベントでチロルチョコをもらってきた。バレンタインが近かったからかな? チロル「チョコ」とはいうけれど、チョコレートとは思えないネーミングの種類も混じっていて面白い。「きなこもち」っていうのがあるな・・・まだ開けていないけど、これはチョコなのか? わからん。

 家族で分けて、僕の手元にきたのはコーヒーヌガーという味のもの。これ、昔からある一番オーソドックスなやつだな。チロルチョコといえばコーヒーヌガー、コーヒーヌガーといえばチロルチョコ
 しかし、僕は子どもの頃、このコーヒーヌガーが苦手だった。中にキャラメルみたいなものが入っていて、それが歯にくっつく感じが好きになれなかったのだ。人生の要所々々でこのコーヒーヌガーを口にしてきたが、その度に「やっぱり好きじゃない・・・」と天を仰いだものである。
 最後にこのコーヒーヌガーを食べたのは一体、いつだっただろう。自分では絶対に買わないから、誰かにもらったのだと思うけど、多分、30歳を過ぎた頃だったかなあ・・・職場の人からだったか、あるいは妻のママ友からだったか、とにかく人からもらって、もらい物だから仕方なく、その場で食べた。
 味は悪くないのだけど、食感が問題なんだよなー。キャラメルは、僕は「舐めるもの」だと思ってるのだけど、チョコレートでコーティングしてあるものだから、どうしても噛んでしまう。チョコレートは僕にとって「噛んで食べるもの」なのだ。逆に言うと、チョコレートは舐めるものではないと考えている。で、チョコレートを噛み砕くと、どうしてもその中にあるキャラメルまで噛まないわけにはいかない。で、うへーッてなる。

 そういう僕のところにコーヒーヌガーがやってきたのは、僕の家族は全員、このコーヒーヌガーが好きではないからだ。やはり、このキャラメルの食感が赦せないらしい。で、うん、まあ、別に僕も食べなくたっていいんだけどさ、ムダにしてしまうのも申し訳ないので、結局食べた。
 あ、でも、なんか、いいかも。中のキャラメルみたいなやつが、僕の記憶よりも柔らかい感じがして、しかもちょっと、以前より歯にくっつきにくい気がする。おおお、いいじゃん。これなら、噛んでもあまり嫌じゃないね。たまたまなのか、コーヒーヌガーの食感に改善が施されたのか、分からないけど今回はなんとなく、おいしく頂けた。

 チロルチョコ、久しぶりに食べたけど、やっぱりおいしいね。チョコがうまい。昔からある駄菓子って、もはや日本のクラシック、伝統菓子だと僕は思う。うまい棒とか、ガリガリ君とか。いつまでも楽しめる味であってほしいな。

小澤征爾、去る。

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 二月一日、神戸から貨物船淡路山丸で出発した。埠頭で見送りに立っていたのはたった三人、明石にいる友人とその母上、それに兄貴だけ。貨物船なのでよその見送り人もない。まことに静かな旅立ちだった。何とも複雑な気持ちである。
 --- こいつは大変なことになった。いったいどうなることやら・・・。


「僕の音楽武者修行」 小澤征爾 新潮文庫

 

 指揮者・小澤征爾が世を去った。
 僕が子どもだった頃、オザワ=ボストン響といえば、世界屈指の名コンビとしてクラシックの世界で喝采を浴びていた。当時、コンサートに行く金などないクラシックファンの子どもが音楽に触れるためにはCDを買うしかない時代であったから、僕のレコード棚にはたくさんのオザワ=ボストン響の録音が並んでいる。僕は特にマーラーが好きで、神戸で震災があった日、僕の頭上を飛び越えたミニコンポにはこの、オザワ=ボストンのマーラー6番のディスクが入っていた。
 小澤征爾さんは、音楽に向き合う真摯さと、ステージマンらしい軽やかさのバランスがとれた、素晴らしい指揮者だった。いつか金ができたら生のステージを拝見したいと願っていたのだけど、ついにその機会を得られなかったことは悔やまれる。金のことなど気にせず、聴きに行けばよかった。無念。

 小澤さんといえば、指揮棒をもたないスタイルがトレードマークである。
 映像でしか拝見したことがないが、指先まで使って表情豊かに指揮する姿は実に印象深かった。全身全霊を込めて、という表現が、まさにふさわしい。小澤さんの指揮は、いつも指が歌っていた。そして、腕も、表情も、存在全てが音楽であるかのように大オーケストラと一体になって指揮する姿は、ステージに漂う音楽の精霊を必死になってつかまえようとしているようにも見えた。指揮棒で突き刺すのではなく、素手で。
 それは、夏の空を飛び交う昆虫を、背伸びして捕らえようとする少年の姿のようでもあった。とすると、小澤さんにとっては、ステージの照明は夏の激しい日差しで、音楽は魅力的な獲物だったのだろうか。そんな想像もおもしろい。けど、そういうことを考えてしまうほど、指揮をする小澤さんの表情が無垢であったことも印象深い。そういえば小澤さんは、ボストンの地元球団であるレッドソックスの大ファンだったようで、野球のユニフォームをお召しになって画面に現れるニュースを見たことがあったっけ。よくお似合いだった。そしてやはり、ユニフォーム姿は無垢な少年のようであった。

 指揮者・小澤征爾の魂よ、永遠なれ。
 そして、音楽少年の魂よ、永遠なれ。夏の日差しと、終わることのない喝采とともに。