笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

プラチナ・プレスマン

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 以前、コクヨ製鉛筆シャープのことを書いた時に、合奏時に楽譜のマークアップやメモの書き込みをするためにプラチナ製プレスマンではちょっと細かった、ということを書いた。で、長い間プレスマンを死蔵していたのだけど、近頃はまた、プレスマンを握る機会が増えた。
 というのも、療養のために自宅で過ごす時間を何とか有効活用したくて、子どもが生まれた時に中断したジャズの勉強をまた始めているからだ。楽曲や有名なプレイの分析をするのだけど、五線紙に音符を書く時に、0.9mmのシャープペンシルがちょうどいい。
 僕が持っているシャープペンの中で、現役なのは1.3mmの鉛筆シャープだった。だから、最初はこの1.3mmで楽譜を書こうとしたのだが、そうするとオタマジャクシの頭も尻尾も大きく太くなりすぎて、うまく五線に収まらない。臨時記号など、潰れて読めなくなってしまう。そこで、0.5mmのグラフ1000に持ち替えてみると、今度は細すぎてオタマジャクシの頭や十六分音符の旗がショボい。
 まあ、自分が読めればそれでいいか・・・とも思った。しかし、実はそうも言っていられない事情が僕にはあった。それが何かと言うと、僕は中学校の吹奏楽部の生徒さんに教える時に、アドバイスを五線のメモ用紙に音符を書いて渡すことがあり、その時に1.3mmで書いて「書きにくいし、読みにくい・・・(ゴメン)」と悩んでいたことだった。
 プレスマンは、長いこと使っていなかったのでその存在をすっかり忘れていた。だけど、先だってグラフ1000の記事を書いた時にプレスマンのことを思い出し、0.9mmはちょうどいいかもしれないな、と考えた。で、使ってみると、ビンゴ。音符はきっちり書けるし、臨時記号もギリギリ潰れない。いいじゃん。
 中学校に行く時に、ペンを持っていくのを忘れたくないので、鞄に入れっぱなしにするためにに一本買い足した。三宮のナガサワ文具に行くと、黒、白、赤のプレスマンがあったので、どうせなら目立つ方がいいだろうと思って赤を購入。

 ちなみに、シャーペンの芯の規格は0.5mmと1.3mmの間にはm0.9mmの他に0.7mmがある。ナガサワ文具に寄ったついでに、あれこれペンを眺めていたら、ぺんてる製ケリーの0,7mm(海外規格)があったので、試しに握らせてもらった。試し書きもしたのだが、うーん、0.7mmは0.5mmとあまり差を感じないなあ。ケリーの握り心地は素晴らしかったけど、今の僕には必要のないペンのようだ。そして、今回は、コヒノールみたいに衝動買いはしなかった。赤プレスマン買ったしね。ああでも、ケリーもいいペンだったなあ。

 ちなみに、0.9mmなら僕の好きな鉛筆シャープにも存在する。なのになぜ、鉛筆シャープではなくてプレスマンにしたかというと、クリップの有無が理由である。僕の好きな鉛筆シャープのレギュラー品には、クリップがない。これは、僕にとって鉛筆シャープの、たったひとつの機能上の欠点だ。
 いや、鉛筆シャープにクリップがないのに理由があるのは、よく分かってる。短軸のペンにクリップをつけると、芯の尖った方を使うためにペンを回転させてクリップが手のひら側に来た時、握りにくいのだ。長い軸のペンを短く持てば、クリップの有無は問題ではなくなるんだけどね。
 ただ僕は、できればペンにはクリップがあって欲しいと思っている。譜面台の端や鞄のポケットにペンを挟んでおくのにクリップは便利だからだ。僕の不注意が悪いのだけど、クリップがないペンは、よく落としてしまう。実際、鉛筆シャープは頻繁に落とすので、さすがの1.3mm芯もペンの中で折れてしまった。多少持ちにくくても、クリップのあるペンの方が僕には必要だ。

 プレスマンにはちゃんとクリップがある。昭和的チャチさは否めないけれど、クリップとしての仕事に問題はない。たった200円のペンなのだから、むしろその価格でクリップも消しゴムもフル装備であることが美点だ。ちなみに鉛筆シャープにも消しゴムとクリップのついたモデルがあるが、こちらはもう少しお高い。その分、消しゴムもクリップも立派だけど。

 さーて、勉強、勉強。慢性疲労症候群の症状は、二週間から一ヶ月程度の周期で良くなったり悪くなったりする。調子が悪い時には勉強もはかどらないけれど、「何もしてない訳じゃない」という気休めにはなる。音楽の勉強は気晴らしにもなるしね。どうせ何もできないんだ、好きなことをやるさ。

三菱uniの色鉛筆

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 写真の勉強をするのに、妻のトンボ製色鉛筆を借りていたのだけど、やっと自分用に、三菱uniの色鉛筆、No.880を買った。
 学用品グレードの36色である。子どもの頃は、この36色という色数に憧れたものだ。普及品ではあるが、36色の色鉛筆が手元にあるのは、何となく嬉しい。
 この色鉛筆を買うにあたっては、ファーバーカステルホルベインみたいな高級品にしようかと最初は考えていたのだけど、ふと我に返って「別に塗り絵がしたい訳じゃない」と思い直し、昔懐かしのuniを選んだ。にゅーんとゆがんだ色鉛筆がプリントされた缶パッケージのデザイン、これずっと変わらないね。素敵。
 さっそく紙にこすりつけてみると、あれ、案外彩度高め、コントラスト強めだ。何となく、トンボよりも彩度低め、コントラスト弱めのイメージがあったのだけど、そんなに違わないなあ。もちろん、発色の傾向ははっきり違う。僕の記憶の中で、カメラメーカーでたとえて言うなら、トンボはニコン、三菱はキヤノンってイメージだったんだけど、実際にはそこまで違わないようだ。
 ああでもね、昔の言い方で言うところの肌色、うすだいだいは、トンボが濃いめ、三菱が淡めである。このせいで、僕の中でトンボが濃くて三菱が淡いっていう印象が定着したのかもしれないな。

 自分専用の色鉛筆を持つなんて、小学校以来だ。大学の講義で使うために12色を生協で買ったことはあったけど、単位が取れた瞬間使わなくなって、そのうちなくした。自分の楽しみとして、じっくり色鉛筆を使うのなんて、本当に久しぶりだなあ。楽しい。

 僕の娘が、絵を描くのが好きで、時々「一緒に描こう」と誘われる。画材はボールペンだったり鉛筆だったりと色々なのだけど、先だって久々に塗り絵に誘われたので、新しい色鉛筆を持ち出して、ポケモンの塗り絵に付き合った。真っ白なヒトカゲに無心に鉛筆をこすりつけると、頭がスッキリして気持ちが軽くなる。いいね、塗り絵。この感覚、ちょっと座禅とかヨガに似てるかもしれない。塗り絵にハマる大人がいるっていうのも、納得できる。この忘我感、気持ちいい。

 別に塗り絵がしたくて買った訳じゃないのに、結局塗り絵してるのが我ながら可笑しいけど、まあいいや。あまり高くないから、気楽に塗れるしね。いい買い物をした。ありがとう三菱鉛筆。楽しもうと思います。

Life Wear /今ならチノパンだってはける

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 人生とは、晴れの日だけでなく、雨の日も、どしゃぶりの日も、寒い日もある。そしてまた、雨の日やどしゃぶりの日や寒い日にだって、晴れの日に負けない美しさがある。どんなに悲しい日にも、明日という希望がある。

「着るもののきほん100」 松浦弥太郎 小学館

 

 予約していた本をとりに図書館に行ったら、お薦めの本のコーナーに「着るもののきほん100」という本がおいてあったので手に取ってみた。パラパラとページをめくると、写真がいくつか目にとまって、なんかいい感じだと思ったので借りてみた。書き手は松浦弥太郎・・・やたろう、さんと読むのだろうか。
 内容は、ユニクロの服とからめて、連続するショートストーリーを展開していくお話。ストーリー自体の中にユニクロがどうという話題は出てこないけど、100あるショートストーリーのひとつひとつに必ずキーアイテムになる服が登場する。ユニクロアメリカントラッドも僕は好きなので、楽しく読めた。

 僕は普段こういう、サクサクしたビスケットみたいな食感と味わいの本を全然読まない。でも、たまに読むと、いいなと思う。集中して文意と行間を読み取り、著者の表現と自分の思考を攪拌しながらイメージを立ち上げていくような文章とは違うタイプ。グラノーラのように、風味と食感とのどごしを味わう物語。リラックスして読める。いい。

 少し前まで僕は、こういうスナック的な文章が、全然読めなかった。読めなかったというより、楽しめなかった、と言えばいいだろうか。楽しめないから読まなかった。そういう頃があった。その時僕が読んでいた本はといえば、ハイデガーフッサールニーチェサルトルバタイユ、などなど。現象学が導く無限遠の虚無に絶望する快感に身悶えしたり、実存主義のタフさに疲れ果てたりしていた。つまり、僕の人生の中で、あまり楽しくない時代だった。僕は、懐疑主義の地平線上に立って、前にも後ろにも進めずにいた。そして、その楽しくなさが好きだった。ヘンなの、と思われるかもしれないが、あの息苦しさの中には不思議とマゾヒスティックな喜びがあったものだ。
 あの頃に比べれば今は、リラックスできてると感じる。苦しいことを、苦しいままに受け入れる覚悟ができた、なんて言うとカッコつけすぎだけど、諦めがついた、とか、考えるのがめんどくさくなった、ってことかな。
 すると不思議に、手に取る本も変わる。筒井康隆高橋源一郎村上春樹森見登美彦。僕は、難解な哲学の本は本棚の奧にしまい込んで、もう少し気楽で、救いのある本を選ぶようになった。
 本だけじゃない。気分や考え方が変わると、着る服も変わる。

 僕は、高校生ぐらいの頃からずっと、チノパンが嫌いで、普段着にはジーンズばかり履いてきた。スーツで行くほどではないけどジーンズでは行けない、という用事をこなすためだけに、一応、チノパンを持ってはいたけれど、ほとんど履かなかった。チノパンの柔らかい肌触りが、なんとなく軟弱な感じがして嫌だったのだ。
 その、数十年にわたって受け入れられなかったチノパンを、僕は数年前に受け入れることにした。別にきっかけがあったわけじゃないが、何となく・・・そう何となく、「そろそろ、チノパンもいいんじゃん?」って思ったんだ。
 表向きは、写真撮影の仕事を受けたり中学校に吹奏楽を教えに行ったりするのに、ジーンズではちょっとなあと考えた、ってことにしている。でも本当は、そのちょっと前から、街中で見かけるストレッチ素材のカラーパンツが気になっていて、それまで頑なに守ってきた「俺、デニム派」というこだわりが揺らいでいたのだった。だって、色鮮やかだし、履き心地よさそうなんだもん。こだわりを守り抜くことに疲れ始めてたってのも、ある。
 もちろん、今でもデニムは好きだ。でも、これまで拒否してきたチノパンを、その同列に並べた。チノパン、肌触りがデニムより柔らかくて軽い。ラクチンだ。これはこれでいい。なんで今まで履かなかったんだろう。僕はバカだな。そういう訳で、今ではリラックスした気分でいたい時はチノパンを選ぶようになった。

 去年体調を崩し、その原因は結局分からず、今は慢性疲労症候群という症名を背負って生きている。年齢相応の仕事ができないことにしばらく悩んでいたけれど、この頃は諦めて、「ま、いっか」と何もできない自分を受け入れることにした。正直、色々と辛いことは確かだが、悶々としても何の解決にもならない。悩んで消耗しても無駄だと気づいて、意味なく悩むことはやめると決めた。あーいや違うな、悩むのをやめるというよりは、悩みを無視することにした。そして、そういうやり方で生きる自分を受け入れた。
 楽をすることは、罪ではないはず。
 グラノーラみたいなお話を受け入れたり、チノパンをはいたり、悩みに取り合わないようにしたりすることは、簡単ではなかったけれど、変な言い方だが、それだって努力すれば可能なのだ。心のパラダイムシフトである。立ち位置の変更は、概ね、成功したと思っている。

 慢性疲労症候群というやつ、症状の解消まで何年もかかることもあるらしい。発症に気づいてそろそろ一年が経とうとしていて、多少緩解はしているものの根本的はまだ全然治癒しないことに、時々絶望したりもするけれど、とにかくやれることをやるだけさ。そのためには少しでも身軽な方がいい。体も、心もね。そう思いつつ、今日はユニクロのチノパンに脚を通す。ストレッチのきいた、ラクチンなチノパンに。