笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

積読

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 僕は、積読派である。
 つまり、読みたい本を、今はまだ読まないにしても、とにかく手元に置いておいて、そのうち読むから今はとにかくストックしておく、という読み方をする。この読み方、賛否両論らしいと、最近ネットニュースで知った。そんなことが話題にされていること自体に驚くけれど、せっかく話題になっていることを知ったのだから自分の立場をはっきりさせようと思った。
 ちなみに、今どれくらい積まれているかというと・・・50冊くらいかなあ。
 積まれている本のステータスは色々だ。図書館で借りて一度読んだけど手元に置いておいてまた読みたい、という本もあるし、そのとき強烈に読みたくて買ったのだけど今はさほど読みたいと思わない、という本もあるし、人生で一度は必ず読みたいと決めてあって、開かれるべき時をひたすら待っている、という本もある。
 最初の、図書館で借りたことのある本を買い直したものは、例えば最果タヒさんの「夜空はいつでも最高密度の青色だ」や穂村弘さんの「はじめての短歌」。詩や短歌・俳句は間をあけて度々読み返すので、気に入ったものは一度読んだことがあっても、手元においておきたい。鳥居さんの「キリンの子」みたいに、買いたいのに手に入らないというケースもあるので、欲しいと思ったものは手に入るうちに買っておくことにしている。
 二番目のパターン、今となってはさほど読みたくもなく、なんで買ったのかよく分からない、というのは、例えばトニ・モリスン「ビラヴド」とかトマス・ピンチョン「競売ナンバー99」とか。ちなみに今、その「ビラヴド」を読んでいるところ。しかし読み始めてみると、案外面白い。意外にも気に入って、後でまたリピートして読むことあったりするから読書ってのはやめられない。
 最後のやつは、メルヴィル「白鯨」とプルースト失われた時を求めて」。持ってるんだからさっさと読めよ、と自分でも思うけど、何となく今じゃない気がするんだよね。なんか、読みこなせるだけの力がまだ自分にないような気がして、手が出せない。
 これまで読んできた数千冊だって、読みこなせる力がついてから読んだのかと問われたら、全然そんなことなくて、「分からーん!」とアタマをかきむしりながらページを繰り続けてきたのに、このふたつは何となく、そうしたくない。じゃあいつ読むの、って話になると、正直、分からない。なんかね・・・鋼の表紙なんですよ。錆びついた恋みたいに、開くに開けない。寝かせすぎたんだな、きっと。

 積読の本は、現在は減少中かなあ。増えるより減る方のペースが今は速くて、本棚に空きスペースができつつある。今年に入ってから随分読んだから、マイナス10冊ぐらいにはなっているだろうか。ああでも、この積読リストの中には夏に買った「宮沢賢治全集(ちくま文庫)」が入っていないから、結局増減ゼロかも。うーん。まあ、宮沢賢治は読み終わっておしまいっていう読み方じゃなくて、必要な時に必要な箇所を参照するって感じで読むから、積読リストからははずしておいてもいいことにしよう。

 別に、無理にストックを削る必要もないのだけど、何となく年度末までにあと十冊、減らしたいと考えている。だから、なるべく積読ストックを増やしたくないのだが、今日ジュンク堂に行ったら、以前から探していた大江健三郎さんの「燃え上がる緑の木」を見つけ、つい買ってしまった。積読のリスト、そう簡単には短くなりそうにない。ガンバロ。