笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

野良犬

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 街中で野良犬をみかけなくなって、どれくらいになるだろう。
 外飼いの犬もみかけなくなった。いつの間にか、「犬は家の中で飼うもの」という意識が世間に定着して、リードにつながれて散歩をしている以外には犬に表で会うことはなくなった。猫はまだ自由に出歩けているようだが、首輪のない犬はとんと見ない。

 僕が小学生の頃には、野良犬も外飼いの犬もいた。
 実家の隣の文化住宅にどでかい老犬がいて、その犬が鎖でつながれているのをいいことに、毎朝そいつをおちょくってから登校したものだ。子どもだった僕は犬の鳴き真似が得意で、犬小屋の前で「ばうばう」と吠え真似をすると、その犬がよだれを垂らしながら吠え返してきたものだ。で、僕に飛びかかろうとするのだけど、チェーンがあるのでつっかえる。なかなか大きな犬だったし、結構な勢いで飛びかかってくるので、いくらチェーンがあると分かっていてもスリリングだった。で、その犬の顔を見て僕は「いってきます」と手を振る。すると犬も「ばう、」と吠えて僕を見送る。
 そういうやりとりを、小学校の高学年の時にはもうしなかったので、その犬がいつまでその文化住宅で飼われていたのかは分からない。僕が高校生の時、その文化住宅は震災で倒壊した。その時にはもう、犬はとっくにいなかったように思う。
 しかし、その文化住宅に似た犬が、実家から少し離れたビルの入り口のところで飼われているのに、震災後に気づいた。同じ犬かどうかは分からない。分からないがとにかくよく似ていた。大きくて黒い老犬だった。僕には同じ犬であるように思えた。そのビルの前を通るとその犬が「あ、おまえ見たことあるぞ」みたいな目つきで僕を見てきたからだ。
 同じ犬じゃないだろうかと思った理由がもう一つあってそれは、その犬がもうヨボヨボで、老犬の中の老犬の、そのさらに成れの果てみたいな犬だったせい。小学生の頃に老犬だったあの文化住宅の犬がもしまだ生きていたとしたら、確かにこれくらいヨボヨボでもおかしくないだろうと思えるくらいに。
 その犬は、僕が大学に進学して神戸を離れる頃まではまだ生きていた。今にも死にそうだったのに、地べたに這いつくばってよだれを垂らしながら、それでも生きていた。そして僕が大学を卒業した頃に「あいつどうしてるだろう」と帰省のついでに見に行ってみると、犬小屋だけが残っていて、犬はいなかった。そして、その後何年かのうちに、ビルは建て替えられたか改装されたかしてしまって外観が変わり、犬小屋も撤去された。

 そして、野良犬。
 神戸は高架の街で、阪急とJRの高架が細長い街をカテーテルみたいにつきぬけているのだけど、その高架が道と交差するところは当然、トンネル状の通路になっている。僕の実家近くにもそういうトンネル状の高架下がいくつもあって、自転車がすれ違えるくらいの狭いものもあれば、四車線に歩道がついているような広いものもあり、そのうちのひとつに野良犬が住み着いていた。
 それは幅広の高架下だったのだけど、車も人もほとんど通らないところだった。だから野良犬も住処にできたのだろう。文化住宅にいたのと同じような、大型の犬で、のっしのっしと高架下の暗がりを歩く様は、なかなか恐ろしかった。鎖でつながれていないので、さすがにおちょくって遊ぶわけにいかず、時々友だちと「肝試し」と称して見物に行っても、遠巻きに眺めて帰ってくるだけだった。
 その野良犬も、いつまでその高架下にいたのかは分からない。放課後に友だちと遊ぶ時間を中学受験の勉強のために奪われてからは、野良犬を見に行くこともなくなってしまったから。今、同じ高架下を通っても、当然、野良犬などいない。