笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

H. Selmer SA-80 serieⅡ


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 薬が体になじんできたのか、体調は少し上向きになってきた。まだ仕事を休んでいるが、半月後には復帰する。体力をつけなければならない。具合の悪い日もあるけれど、調子のいい時には、歩いたり走ったりしている。特に気分のいい日は、楽器を吹く。今年度はオケの演奏会を断ったので、フルート以外の楽器も楽しむようにしている。先だっては久しぶりにサックスを持ち出した。去年、市内の中学校を教えに行っていた時は時々吹いていたのだけど、近頃は吹いていなかった。バックハッチから車に投げ込んだのは、セルマーのテナーだ。

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 サックスと言えばセルマーヤマハやヤナギサワもいいけれど、昭和生まれの僕にはそういう思い込みがあった。買うときに、台湾製アメリカブランドのサックスも含めてひととおり試奏したが、実際のところはもうほとんど、最初からセルマーにする気でいた。子どもができたらこういう大きな買い物はできないだろうなという思いもあって、だったら手が出せるうちに、憧れの楽器を買っておいた方がいい。一年ぐらいかけてあちこちの店で試奏しまくり、僕の楽器はやっぱりセルマーにするべきだと決心した。そして最終的に手に入れたのが、横浜ビブレにあった(今もあるのかな?)島村楽器でお願いしてかき集めてもらったセルマーの中から選んだ、1990年代製造のセリエⅡだ。
 僕がセルマーを買おうとしていたのは、ちょうどジュビリーが登場したばかりの頃で、セルマーのスーパーアクションには四つの選択肢があった。つまり、非ジュビリーの旧モデルとジュビリー、そしてそれぞれのセリエⅡとセリエⅢ。リファレンスも発売されていたけれど、リファレンスを買う気は最初からなかった。
 当時の僕は仕事がわりと忙しくて都内の楽器店まで行くことができず、そして、住んでいた横浜近辺の楽器店で四つのモデルをすべて並べて試奏できる店は島村楽器以外になかった。その時の横浜ビブレにあった島村楽器の管楽器担当のスタッフさんが、とても仕事熱心な人で、僕が「全部吹きたい」と言うと快く応じてくれた。
 まず、ジュビリーにするべきか旧モデルにするべきかと考え、僕は両者にあまり差を感じなかったので、価格が少し高いジュビリーが選択肢からはずれた。この時点で、旧モデルのセリエⅡとセリエⅢに絞られる。
 セリエⅢは、ヤマハのカスタムとよく似ている。音色が明るくて、イントネーションがよく、レスポンスが素早い。それに対してセリエⅡは、ダークな音色と、ねっとりした吹き味。セリエⅡ、セリエⅢ、セリエⅡ、セリエⅢ・・・何度も持ち替えながら試奏を続けた僕の手の中に、最後に残っていたのはセリエⅡだった。僕にとってのセルマー、僕にとってのサックスの理想的な音をもっていたのは、セリエⅡの方だったからだ。
 でも、僕は悩んでいた。
「なんか違う気がする・・・」
 もうセリエⅡを買うしかないと腹の中では決まっていた。しかし、違和感があった。唸りながら考え込んでいると、僕とほとんど同世代だった島村楽器のスタッフさんが、こんなことを言った。
「僕はお客さんと同い年ぐらいだと思うんですが、僕たちの世代でセルマーっていうと、やっぱりセリエⅡですよね。でもセリエⅡって、製造年代によってずいぶん音色が違うんです。僕たちぐらいの世代が知ってるセリエⅡと今のセリエⅡだと、もうかなり音が違いますよ。もしよかったら、古いセリエⅡを試しますか? 探して、集めておきますから」
 えええええ、そんな事ができるんですか。じゃあお願いします。という訳で、後日来店の約束をした。一週間ほどしてもう一度島村楽器に行くと、関東圏の系列店からかき集めてくれたらしい3本のセリエⅡが店頭にならんでいた。一本は最初に試した2010年頃のセリエⅡ、あとの二本は2000年頃のものと1990年頃のもの。僕が中高生だった頃にきいていたのは多分、1990年代のものだ。
 まず、一番古いその楽器から試してみた。
「そう、これこれ!」
 間違いない、僕が知っているセリエⅡの音はこれだ。新しいセリエⅡと比べると、かなりワイルドな音がする。野暮と言ってもいいかもしれない。でも、僕が探していた音はこれ。スタッフさんと目が合うと、彼も「これでしょ?」という顔をしていた。次に2000年頃のものを吹いてみると、新しいものと古いものの中間的なサウンドがする。これはこれで面白い。そして、時の流れとともにプレイヤーとマーケットの要求に応え続けてきたセルマーの努力がうかがえる。でも、これはちょっと違うかも。
 最終的に僕が買ったのは、もちろん1990年代のセリエⅡだ。別に名品と称えられるモデルではないし、ビンテージとして重宝されるような楽器でもない。そして新品のまま20年も売れ残っているのだから、いい個体ってわけですらない。しかし、僕の知っているサックスの音はこれだ。
 セリエⅡは今もセルマーのカタログにラインナップされていて、販売が継続されている。現代のセリエⅡはどんな音がするのか僕は聴いたことがないけど、僕の知っているどのセリエⅡとも違う音がするのだろう。たぶん、イントネーションも鳴りもずっとよく鳴っているのに違いない。新しいセリエⅡも試しに吹いてみたいなあと、時々思う。でも、うーん、きっと納得しないんだろうな。
 高校生の時、憧れの先輩がいた。僕は音楽でも文学でもその先輩の影響を受けていた。背が高くて頭がいいその先輩は、吹奏楽のテナーサックス奏者だった。その先輩は大学に行ってからもサックスを続けるくらい音楽が好きだった。腕も良かったように記憶している。卒業してからしばらくして再会した時に、大学ではジャニーズのコピーバンドをやっていると言っていたっけ。先輩のテナーがセルマーだったかどうかは記憶していないが、僕は多分無意識のうちに、彼のテナーの音を追い求めているんじゃないかと思う。音楽ではなくて音自体の話をすれば、彼の音はファットでセクシーだった。今の楽器はそういう鳴り方をしない。スマートでインテリジェントなサウンド。それはそれで悪くない。でも、僕の耳が覚えている、あの先輩のテナーの音ではない。
 とにかくかっこいい先輩だった。成績も要領もルックスもよかった。今は何をしているのだろう。僕自身が高校を卒業した後には、一度も会っていない。けどあの先輩のことだから、一角の人物になっているに違いない。元気にしているといいな。今でもサックスを続けているだろうか。続けているとしたら、新しい楽器は買っただろうか。買っているかもしれない。でも何となく、最新モデルのサックスではなくて、マークⅥだとかコーンだとかのビンテージを選んでいそうな気がする。

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 周囲に民家のない人工島で、僕はサックスのケースを開ける。組み立ててストラップに吊り下げ、息を吹き込むけど、半年ぶりに息を通すセルマーは、なかなか鳴らない。拗ねているのだ。けどリードが湿ってくるに従って、音の芯が太くなってくる。こういうところ、いかにも昔の楽器らしい。僕自身の指や肺も、すこしずつほぐれていく。青空に向かって飛び去っていく音の行方を耳で追うと、高校生の頃、楽器を青空練習していた感覚がよみがえってきた。壁と天井のない場所で楽器を吹くのは、とても気持ちがいい。気分が晴れる。
 僕のテナーもだんだん古くなってきて、あちこちのラッカーが剥がれ始めている。あまり吹く機会もないので、数年、調整に出していない。いくつか出にくい音がある。買って十年以上経つから、そろそろオーバーホールするべき時期なのは間違いない。楽器は定期的なメンテナンスが欠かせない道具だ。人間の体と同じように。
 僕は人生の折り返し地点を過ぎた年齢だけど、大きな病気もなかったので、たまに患う風邪とインフルエンザ、そして保険で受けられる健康診断の他には、ほとんど医者にかかることもなく半生を過ごした。大変だったのはせいぜい、社会人一年目の冬に急性腸炎にかかって一週間ぐらい寝込んだことぐらい。だから、二ヶ月も仕事を休むなんて初めてのことだったし、まさか自分がそんな事態に陥るなんて、考えたこともなかった。しかも転職してすぐに病気とは、なんともタイミングが悪い。バリバリやるつもりだったのに、デバナをくじかれた感じがする。
 がめつく長生きしたいなんて気持ちはない。とはいえ、少なくとも子どもが独立するまでは使い続けないといけない体だ。重要なのはメンテナンス。近頃は生活習慣を見直して、朝食の内容を見直したり、ゆっくり食べるようにしたりしている。酒は、「毎晩飲むけど時々休む」を見直して「基本は飲まないけど時々飲む」に変えた。後はとにかく、きちんと食べてきちんと寝る。時々体をうごかす。古くさいやり方かもしれないが、他の方法を僕は知らない。
 今回の療養は、いわばオーバーホールみたいなものか。人生思ったとおりにうまくはいかないものだけど、仕方がない、やれるようにやろう。どうせなるようにしかならない。体の調子が戻ったら、セルマーも一度修理に出そうっと。


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