笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

病棟


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 入院をした。別に手術するとかいうわけではなく、検査入院だ。その検査が通院では難しいから入院、ということになった。人生で初めて入院生活を送った。
 入院した家族や友人を見舞った経験はあるから、病室にはいる経験は初めてではない。しかし、自分がそこに寝泊まりするのはこれが最初だ。数時間滞在しただけでは分からなかった色々なものが見えてくる。大病患って大手術なんて事情だと回りを観察する余裕なんてないのだろうけど、日常生活には差し支えない程度の患いの僕は、それなりに入院生活を結構楽しんだ。

 まず見えてくるのは、看護師という仕事のタフさだ。
 彼らは始終歩き回り、場合によっては走っている。ステーションで座っている時は、熱心にキーボードを叩いているか、あるいは引き継ぎのミーティングをしている。時々、点滴のぶら下がったベッドを押したり、自分の体より大きな患者が起き上がるのを支えていたりする。入院初心者の僕がつまらない質問をすると、丁寧に答えてくれる。医者の指示を受けている時もあれば、医者に指示を出している時もある。患者の病状にあわせて、樹脂製のエプロンや手袋をつけたり外したりしている。いつも、パソコンの乗ったおおきなワゴンと一緒に行動している。そして、逐一カルテを確認しながら、患者に必要な処置や検査を施していく。

 医者も大変だ。
 いつも外来でお世話になっているドクターが、病室に顔を出してくれた。入院した日は、午後に一度、夕方に一度。夕方? 先生まだ帰らないの? 僕はそんなことを思いながら、検査の予定の話を聞いていた。仮にドクターが九時出勤だとしたら、もうとっくに残業に突入している時間だった。説明するドクターの息づかいに疲れが感じられる。ドクターの仕事は、僕にその説明をして、それで今日は終わりってことはないだろう。引き継ぎしたり記録したりみたいな事務仕事があって、それから帰宅するのだろう。でも先生、もう帰った方がいいよ。僕の体が証明しているように、オーバーワークは体に障る。

 そして、当たり前だが病棟には、入院患者がいる。結構な数がいる。パンデミックで一般病床は空きが目立つなんて報道をたまに聞いたけど、少なくとも僕は、そういう印象をうけなかった。そして、様々な人が様々な理由で入院しているのだろうけど、やはりご高齢の方が圧倒的に多い。僕と同じか、それより若い患者は少数派だ。
 病院という場所は、とても静かだ。無音ではないが、すべての音がすごく遠い感じがする。ナースステーションではナースコールのサインとおぼしき「パッヘルベルのカノン」の電子音がずっと鳴り続けているのに、地球の裏側で鳴っているような縁遠さを感じる。そういう静けさの中で存在感を放つのは、老齢の患者が咳き込んだり痰を吐いたりする音だ。彼らはそういう音を、堆積した年齢とともに吐き出す。咳も痰も、どちらかといえば水分を含んだもののはずなのに、音の印象は、乾燥し干からびている。なんだか、聞いていて辛くなる。命の枯れていく音のように聞こえてしまう。

 そういえば僕の祖母は、この病院の病室で息を引き取った。治療の継続が困難で、転院をしようかと相談を始めた矢先、まるで転院の手間を厭うように身体の生命維持機能を停止させた。病院では人が死ぬことがある。かなり頻繁にあるんじゃないかな。そんな気がする。
 ということは、病院で勤務している看護師や医師は、かなり頻繁に人の死に接していることになる。赤の他人であっても、人の死を見るのは辛いものだ。それが、ついさっきまで自分が命をつなごうとしていた患者であれば、なお辛いだろう。彼らはそういう場面に日常的に出会うはずだ。やっぱりタフな仕事だなあ。
 コロナのパンデミックで、医療従事者への感謝が叫ばれている。僕たちは本当に彼らに感謝するべきだと思う。別にパンデミックで大変だからというわけじゃない。パンデミックでなくたって、彼らの仕事はタフなのだ。
 だから、オフの時間はどうかゆっくり休んでほしいと思う。僕みたいに、仕事を職場の外に持ち出したりしないでさ。ね。