笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

再度公園


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幾千万万の蛙があがる。
水絹色の満月めがけて。あがる。あがる。あがる。
   りーるるる りーるるる
   りら りら りら
 
「Beethoven : Spring Sonata 第一印象」 草野心平詩集(ハルキ文庫)より

 

 再度山は、空海ゆかりの山である。
 もっとも、空海ゆかりの何とかだとか、行基ゆかりの何々だとかは、日本全国にいくつもあるだろうから、珍しくもなんともない。けれど、由来も何もない場所と比べると、なんとなく有り難いような気持ちがしてくるから不思議なものだ。
 つづら折れになった山道をくねくねと車で上っていく。途中で自転車やハイカーを追い抜きながら進んでいくと、やがて修法ヶ原池に着く。ここが再度公園だ。
 その昔、六甲山地ははげ山だったそうだ。明治の開港によって急増した都市人口を支えるために、山の木が薪炭材として切り出されてしまった。しかし、森林を失った山地が保水力を失えばどうなるかは、今日の我々には容易に想像がつくだろう。そこで、植林事業が始まった。そのスタート地点が、ここなんだそうだ。
 見渡せば辺りに生えているのは、杉と松。杉は建材で、松は燃料。もちろん落葉広葉樹の類いもたくさん生えていて、足下を見るとマツボックリに混じってドングリがたくさん落ちている。

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 そういう多様な樹木が入り交じって生える山の窪みにあるのが、修法ヶ原池。あまり高くはないが傾斜が急な六甲山地に、こういう水たまりがあるのは珍しい。今でこそ道路が通って容易にアクセスできるが、道さえなかったような時代にここを訪れた人は池を見て驚いたに違いない。周囲をぐるっと見渡しても、流入する川筋はなく、湧き水によってできた池だろうと想像できる。自然というのはこういうところが面白い。
 池の中程では、鯉が悠々と泳いでる。池端をぶらぶら歩いていると、僕と並んで歩きながらぼんやり浅瀬を見ていた妻が、突然、青ざめた声をあげた。
「う、わ、おたまじゃくし!」
 水際のところに、ひじきみたいな黒い粒がたくさん浮いている。百や千の話ではない、何万という命の黒い粒がひしめきあっていて、よく見るとそれは、尾のはえたタピオカのような生き物、おたまじゃくしだったのだ。
 一ヶ月ほど前に、僕は友だちにさそわれてあいなの里に行った。その時、池の中にかえるの卵がゆれているのを見た。きっとその頃、この修法ヶ原池にも同じようにかえるの卵があって、それが今、孵化して命の大群となったに違いない。子どもたちに、「あれ全部、おたまじゃくしだよ」と教えると、彼らはわーきゃーと騒ぎながら枝でかき回したり石を投げたりし始めた。珍しかったのに違いない。僕が子どもの頃はまだ、都市部でも雨が降るとアマガエルの姿を見ることがあったけど、今は全然見かけない。
 しかし、どうしてだろう、こういう小さな生き物が子どものサディスティックな好奇心を刺激してやまないのは。見渡せば、おたまじゃくしに殺生な打撃を加えているのはうちの子どもだけではない。よそのお子さんたちも、さかんに枝で水面を打ったり砂を投げたりしている。周りを見渡せば、禿げかえった山肌に人間が植え直したであろう森。命を与えるのも人間ならば、奪うのも人間。一神教の神とは人のことだったのか。空海は涅槃の静けさの中からこの光景を、どう見ているだろう。僕にはよく分からない。
 命は相克しあうもの。生きるものは死ぬし、死なぬものは生きぬ。そうとは知りつつも、できれば自分の子どもには、命を植え育てる方に進んでもらいたいと願わずにはいられないと願う僕は、虫がよすぎるだろうか。僕には、よく分からない。
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