笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ポートタワー


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 新開地でタクシーを拾うとき、ポツリポツリと降り始めた雨は、中突堤メリケン波止場)のポート・タワーに着くころにはすっかり本降りになっていた。
 
「犬の記憶 終章」 森山大道 河出文庫

 

 地元の観光名所というものは、そう度々訪れないものだ。幼い頃に一度訪れたきり全然行かなくて、そのたった一度か二度訪れた記憶さえも、すでに不確かになっている。そういう人は多いだろう。神戸市民にとっての、薄れかかった記憶の向こうにある地元の観光名所といえばやはり、ポートタワーではないだろうか。
 ポートタワーといえばもともとは湊川に・・・なんてことを言う人は、もうほとんど極楽往生しているだろう。ポートタワーといえば、メリケンパークにあるあのロウソク型の赤い鉄骨塔だ。もちろん、見たことはある。写真を見れば、ポートタワーとマリンタワー(横浜)の区別はつく。けど、中は? 展望室からの眺めは? きっと、横浜市民がマリンタワーのことについて応えられないのと同じように、神戸市民の多くもまた、ポートタワーの展望室のことまでははっきり応えられまい。
 子どもだった僕がポートタワーに上ったのはいつだっただろう。少なくとも小学校か、それより小さかったはずだと思う。中学生になってから、タワーの足下は何度も通過したが、「こんなもん上って何になる」ぐらいに思っていたので、上っていないはずだ。じゃあいつ上ったのか・・・上ったことは覚えているけれど、いつ誰と上ったのかどうしても思い出せない。小さな頃なら、母か叔母だろうか。きっとそうだろう。でも確信がもてない。
 大人になってからもずっと上らなかったけれど、子どもができてからせがまれて二三度上った。上って展望室に入った途端、「あ、変わってないな」と感じた。記憶というのは不思議だ。そのものを見た瞬間に既視かそうでないか直感することができる。窓から見下ろす風景はずいぶん変わってしまったはずだけど、このポートタワー自体は、昭和の時代が暮れかかる頃のまだほんの幼かった僕が上った時と、全然変わらない。回転する展望室の窓を境目に、時代がぎりぎりと摩擦している。

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 僕にとって神戸は、過去の記憶が堆積した街だ。つくづくそう思う。時間が層をなして地下に沈み込み、現在この刹那の表層の下にたたみ込まれえている。何を見ても、何かを思い出す。どこへ行っても、僕の記憶の小さな引き出しが開く。それは、はっきりしたイメージや匂い、言葉の形をとらないこともあるけど、ここにはいつだかの僕の記憶がはっきりひも付けられていると、僕はそう感じる。
 ポートタワーの足下に、Kiss FM Kobeというローカルラジオ局がある。
 子どもの頃、僕は寝る前によくラジオを聞いていた。ラジオは好きだった。多分、小学生高学年ぐらいから聞いていた。最初はNHKで、ラジオドラマを聞いていたのだけど、だんだん好みが変わり、クラシックやジャズを聞くようになった。Kiss FMでジャズピアニストの小曽根真さんが番組をもっているのを知ってからは、放送のタイミングをちゃんとチェックしてスピーカーの前に座るようになった。小曽根さんはピアノも素敵だがトークも面白い。多分、高校を卒業するぐらいまで、二年ぐらいのあいだ聞いていたように思う。
 一度、リスナーとしてファックスを送ったことがあった。受験勉強が忙しくなって、そろそろラジオの量も減らそうと決めた頃、僕はA4の紙にマジックで、フルートを吹いていることや勉強が大変なことを書き、送信した。ラジオにファックスなんか送ったのは、あれが最初で最後だ。けど、そのたった一度のファックスを、小曽根さんが番組の中で読んでくれたのだった。嬉しかった。たいしたことを書いたわけでもないけど、僕なりに心をこめて書いたつもりだったから。
 僕はその後、首都圏で暮らすようになり、仕事でラフォルジュルネに関わることがあった。知り合いが小曽根さんのクラシックプレーヤーとしてのマネージメントをしていたつながりで、その時、トロンボーン中川英二郎さんとともに出演していた小曽根さんにご挨拶する機会を得た。「むかし、Kiss FMにファックスを送って、読んで貰ったことがあるんですよ」と伝えると、小曽根さんは照れたような笑顔で「ああ、そうですか、Kiss FM懐かしいな」みたいに返事をしてくれた。きっと覚えていなかったんだと思う。そりゃ覚えてないよね。僕だってそんなことまでは期待していない。けどやっぱり・・・「ああ覚えてるよ」みたいな返事も、やっぱり少しは待っていた。まあ、当然ながら、そうはならなかったけど。

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 思い出なんてビールみたいなもので、大人になればあのほろ苦さも、おいしく思えるのだ。これもいい思い出だと、今は思う。
 今日の神戸は雨だ。ポートタワーも、僕のズボンの裾も濡れている。