笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

空港


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 機上からサンフリアンをふり返ってみる。そこはもうひと握りの光でしかなく、つらなる星の光に変わり、空中の塵になって消え、やがて心の中にだけ残った。

「夜間飛行」 サン=テグジュペリ/二木麻里(訳) 光文社

 

 僕が初めて飛行機に乗ったのは、高校の修学旅行だった。目的地は北海道。国内旅行だからパスポートもいらないし、フライト時間だって2時間ぐらいなものだろう。でも、それはすごく特別なことのように感じられた。離陸のGに、気絶するんじゃないかと思うくらいどきどきしたのをよく覚えている。あの、離陸の時のななめ後ろに引きずられるような加速度と、着陸の時の振動を感じると、今でもどきどきとそわそわが止まらない。いつまで経っても慣れない。いい加減、飛行機も何度も乗っているし、もういい歳でもあるのに、そんなことぐらいで緊張するのは恥ずかしいとは思うのだけど、ダメなものはダメだ。

 そもそも、人間は空を飛ぶようにはできていない生き物だ。空を飛ぶなんて、水の中を泳ぐことよりももっと不自然だ。第一、「飛んでみよう」という発想自体がおかしい。以前のブログで「月に行けると本気で信じていた」みたいなことを書いておいて、こんなことを言うのは矛盾しているかもしれないけど、これはもうほとんど生理的な感覚の話なので、今更この考えや感覚を改めることは、僕には不可能である。
 もっとも、空に挑んだ先人たちは偉大だ、とも僕は思う。僕は、ほとんど蛮勇と言ってもいいその無謀な勇気に頭が下がる。心の底から尊敬する。同時に、「アホちゃうか」と笑いたくもなる。やっぱり、何とかと天才は紙一重なんだろう。


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 じゃあ、飛行機に乗ったり空を飛んだりするのが嫌いかと問われれば、そうでもないと僕は応える。
 子どもの頃、学校の校庭にあったジャングルジムみたいな遊具に上って、その天辺から飛び降りる遊びが僕は大好きだった。遊具は多分、2メートルちょっとの高さだった。その遊びに夢中になっていたのは小学校2、3年生ぐらいの頃で、先生や友達からは危ないからやめろと言われていたのに、どうしてもやめられなかった。遊具のてっぺんにのぼり、細い支柱に足を踏ん張って立ち上がると、目の位置と地面の高低差は3メートル半ぐらい。はっきり言って、気の弱い僕には足のすくむような高さだ。しゃがんでから飛んでもいいのだけど、僕はあえて、立ったまま、脚がすくまないように自分の気持ちを奮い立たせて、ただ前に出るよりはむしろ空の方へと向かって、えいっとジャンプする。僕の体は一瞬高く跳ね上がるのだけど、運動はすぐに下降に転じ、僕は運動場の硬い地面にむかって落下する。股間が縮むような浮遊感の後、僕は脚全体をショックアブソーバーにして、ハードランディング。地面にたたきつけられるようにして着地した時の爽快感と安心感は、ほとんど麻薬的な快感だった。
 ああそうか、空を飛んでみたいと願ったり、実際に今飛んでいる人たちっていうのは、ひょっとしたら、飛びたいんじゃなくて、着地したいのかな。緊張と弛緩。快感の基本だ。ああなるほど、そういうことか、そうかもしれないな。


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