笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。


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 外は、微かに雨が降っていた。傘をさし、アパートの脇の自動販売機で缶コーヒーを買った。雨は風で揺れながら、辺りを少しずつ濡らしている。僕は傘をさしながら、ゆっくりと、アスファルトの道を歩いた。行き先はなかったが、部屋に戻りたいとは思えなかった。

「何もかも憂鬱な夜に」 中村文則 集英社文庫

 

 僕は決して、雨を嫌いではない。
 梅雨にしとしとと垂直に降る雨は、いかにも慈雨という感じがしていい。秋の暴風の激しさには、何となくこちらも昂ぶってくる。あまりに激しすぎて誰かが傷ついたり何かが失われたりするのは悲しいけれど、僕の個人的な嗜好の問題として、雨の静けさに閉じ込められている感覚や、靴にしみこんでくる冷たい感触、濡れたズボンの裾の重さは、悪くない。そして、そういう感覚によって僕が引きずり下ろされていくあの内省的にぬかるんだ気分も、冷えた感覚の中でさぐる暖かい命の手触りも、とめどない憂鬱さと蛍光灯の灯りのまぶしさを行ったり来たりする浮遊感も、雨の日なら耐えられる気がする。

 僕がとりわけ好きなのは、盛りを過ぎかかった夏の夕立が、アスファルトをたたき始めるその瞬間に、地面からわっと立ち上がる埃っぽい匂いだ。素足では歩けないほど熱せられた足下から、その匂いが立ち上がってきて足首を熱くする感じがいい。長かった真夏の一日が終わるのだという実感がある。子どもの頃から、あの匂いが好きだった。雨が降ると今でもあの匂いがすることに、時々僕は感動しさえする。白く灼けた路面が冷えて黒々としていくあの色もいい。そして、アスファルトが濡れきってその粒子の隙間を雨水が重力に従って流れ始めると、あの降り始めの匂いも消えてしまい、あとは雨がやむのを待つばかりになる。少し、寂しい。

 世界には、雨がほとんど降らない土地があるのだという。僕はその土地を、写真で見たことがある。真っ青に乾ききった空と、白くささくれた大地が写っていた。この土地に住む人は、あの夏の夕立の匂いを知らないだろう。それはとても悲しいことだと、雨の匂いを知っている僕は思う。そんなことに同情されたって彼らにはなんのことか分からないだろうけど。
 砂漠の相合い傘は、砂の焼ける香りがするのだろうか。

 


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