笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

映画館


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One by one, forget everyday sounds, words, and symbol of modern life.
ひとつひとつ、あまりにも近代的な、日常の音や言葉を忘れ
 
映画「ATLANTIS」冒頭より/リュック・ベッソン監督

 

 映画館というのは、誰にとってもちょっと特別な場所だ。テレビが普及する前もそうだったし、ネット配信が普及した今でもそうに違いない。大きなスクリーンを見上げながら座席に深々と身を沈め、レンジの広い音響を腹で感じる体験は、絶対に家ではできない。だから、「映画を観た」と語るのと、「映画館で見た」と語るのでは、その体験の質も内容も全然違う。そして、自分にとって特別な一本は、やっぱり映画館で観たい。
 僕にとって特別な一本は何だろう。みなとみらいのワルポで観た「悪人」だろうか。仕事を早上がりして駆けつけた恵比寿で観た「モーターサイクル・ダイアリーズ」だろうか。今はもう閉館してしまった関内の地下映画館で観た「四月物語」だろうか。高校時代に期末試験開けに同級生と三宮で観た「インディペンデンス・デイ」だろうか。どれもが特別で、この一本なんて決められない。
 じゃあ、その中で一番最初の映画は何だろうと記憶をたどってみる。目を閉じると、暗闇の向こうがほんのり青く輝き始め、そこへ一匹のマンタが空を舞うようにして滑り込んでくる。ああこれは、リュック・ベッソンの「アトランティス」だ。

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 調べてみると、1991年の映画らしい。ということは、僕はこの映画を中学生の時に観たようだ。確か、ハーバーランドのモザイクで観たように記憶している。あの頃、モザイクはできたばかりで、まだ真新しい座席で映画を観るのはとてもシャープな体験だった。
 そして「アトランティス」は僕にとって、とにかく、とてつもなく印象深い映画だった。それまで僕が親に連れられて三宮の国際会館だとか松竹で観た映画といえば、三本立てのアニメ&特撮ぐらいなもので、当然それらの映画は、ビルドゥングスロマンであるにしろ勧善懲悪のチャンバラものであるにしろ、筋のある物語だった。ところが、「アトランティス」は物語的な意味でいう筋のない、海洋ドキュメンタリーだったのだ。僕はこのとき、初めて人間(あるいは人間に準ずる擬人化されたキャラクター)の登場しない映画を観た。感動した、というよりは、強いショックを受けた。僕が、映画とはこういうものだと知ったつもりでいた先入観、思い込みを、完全に、完膚なきまでにぶち壊された気がした。

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 この映画を境に、僕の映画「観」は変わった。どういう風に変わったのか、うまく説明できないけれど、とにかく僕は今日すごい体験をして、映画を観るということはちょっと覚悟が必要なことなのだと考えるようになった。そして、同じ映画を自宅の小さなブラウン管で観ても、きっと同じような衝撃は受けなかっただろうとも思った。事実、その一年後ぐらいに「アトランティス」のビデオをレンタルしてもう一度観たのだけど、この時はさっぱりピンとこなかった。
 思うに、映画館で観た映画というのは、なかなか忘れない。何年経っても何十年経っても、その映画が悪魔的に面白くてもカネ返せ的につまらなくても、「あのとき○○の映画館で観た映画、チョーつまんなかったよな」みたいな感じで、そのくだらなささえ覚えているから不思議なものだ。
 そういう意味では、映画っていうのは、祝祭やライブみたいな体験なんだと僕は感じる。つまり、複製と繰り返しが可能なコンテンツの単なる消費というよりは、もっと個人的で、その人の人生や人格にすり傷を残す経験だということだ。
 僕は四十代で、人生の折り返し地点だ。もちろん確実じゃないけど、僕の人生はもう半分残っていて、そのもう半分の人生の中で、きっとまた映画館に足を運ぶ機会があるだろう。そして、その映画館で観た映画の一本一本がきっと、僕にとって取り替えがたい特別な経験になる。今度のコロナ騒ぎで、映画館みたいに人を集める商売はどこも大変らしいけど、映画館は絶対になくならないでほしいと僕は願う。
 映画観るなら映画館。だって、餅は餅屋で買うでしょ? だったら、映画観るなら映画館だ。餅屋の餅の味を知らない人には、どうでもいいことかもしれないけど。

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