笛吹きもぐらは旅をする

笛吹きの、慢性疲労症候群の療養日記。

ルミナス神戸


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 もしこの生前の一連の指導で解脱に至らないならば、〈チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)〉において、〈ポワ(転移)〉という、記憶するだけでおのずから解脱できる手段が適用されるべきである。普通の能力のヨーガの実践者ならば、これを受持し実習することによって、その後のバルドゥの期間を経過しないで確実に解脱に至ることができるであろう。

 

 神戸港クルーズを行っていたルミナス神戸2を運用する会社が、コロナパニックのあおりを受けて破産申告をしたという報道があった。とても残念に思った。
 学生の頃にティータイムクルーズに乗った記憶がある。確か、明石大橋あたりまで行って引き返してくるコースだった。その時のことは、それ以上ははっきりと覚えていない。午後の神戸は、憂鬱そうで、あまり魅力的じゃなかったんだと思う。海から神戸の街を見るなら、やっぱり夜がいい。神戸人は誰でも、心の中にマイ・夜景をもっている。僕の神戸のマイ・夜景は、ポートアイランドの北公園から見上げる、山に向かって這い上がっていく光の帯だ。でも、その話はまたの機会に。

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 ルミナス神戸のことで、ひとつだけ、強烈に印象に残っていることがある。
 それは阪神淡路大震災の時のことだ。一月に僕は被災し、神戸にいてもどうにもならないから、姫路の手前にあった高校の寮に疎開を兼ねてぶちこまれた。あの地震の被災の範囲は、震源地から東方向に偏っていて、明石よりずっと西にある姫路のあたりはあまり被害がなかった。僕は、大混乱の神戸から父の運転する車で高校まで送られ、異様に静かな高校の寮で学年末まで過ごした。
 カプセルに閉じ込められて時間を漂流しているような、奇妙な二ヶ月だった。寮ではほとんどテレビも見られない。地震に襲われた神戸という現実から切り離された僕は、停止した時間の中に取り残されたような錯覚にめまいを感じながら過ごした。凍りついたカイロス時間。でも、クロノス時間は無限機関のように動き続け、やがて学年末試験が終わり、僕は寮での疎開生活を終えることになった。

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 三月になると、ずっと停まったままだったJR山陽本線神戸駅まで開通して、僕は高校の寮を出ると電車に乗って神戸まで行き、そこから徒歩で自宅に帰った。
 徐行する列車の車窓からは、焼け野原になった長田が見えた。黒焦げの街を見下ろして、そういえば神戸はえらい地震にやられたのだと思い出した。神戸で降りると、損壊した建物を解体する騒音と粉塵でえらい騒ぎだった。僕はあらためて、これはすごい地震だったんだと思い知った。
 神戸の地震の前に、北海道の奥尻島津波がのみ込んだ地震や、カリフォルニアの地震があって、僕はその報道をテレビで見ていた。あのときのテレビニュースは大騒ぎで、きっと今回の神戸の地震も、連日テレビで報道されていることだろうと僕は思いながらハーバーランドを通ってまず海岸線に出た。それが僕の自宅への近道だということを僕は知っていた。
 海沿いに歩いて行くと、ルミナスが停泊しているのが見えた。繋柱の側に看板が出ていて、「カフェ営業中」と出ていた。どうも、船のラウンジをカフェとして解放しているらしかった。僕は、ドンコウで一時間以上かけて神戸に戻ってきて疲れていたし、寮ではコーヒーらしいコーヒーは飲めなかったので、久し振りにちゃんとしたコーヒーを飲みたいと思って立ち寄った。
 カウンターの上にテレビがつってあった。きっと震災関連のニュースをやっているのだろうなと思ったら、違った。テレビに写っていたのは、東京・霞ヶ関。そう、地下鉄サリン事件だ。震災からまだ二ヶ月ちょっとしか経っていないのに、神戸の地震のことなんてもうすっかり忘れてしまったように、サリンサティアンだと、テレビは騒ぎ立てている。なんだか、妙な気持ちになった。そりゃ、地下鉄サリン事件だって大変な事件だってことはその時の僕にだって分かったけれど、「あれ、神戸は?」って思った。
 あの日、ルミナスのラウンジには、僕の他に、作業服の大人が数人いた。彼らも僕と同じように、一言も話さずに熱いコーヒーをすすりながら、じっとテレビを見ていた。多分、僕と同じように感じていたんじゃないかな。「あれ、神戸は?」って。
 その後、ルミナスがいつまで岸壁につなぎっぱなしだったのか、僕は知らない。神戸の街は少しずつ震災の痛手から回復し、気がつくとルミナスも以前のように観光クルーズを再開していた。
 でも、僕の心の中にはあの、「あれ、神戸は?」っていう感覚がずっと残っていた。結局、日本は東京なんじゃないか・・・神戸なんて所詮、中堅地方都市にすぎなくて、日本の真ん中にいる人たちにとってはどうでもいい・・・。

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 大学を卒業してから、北海道の奥尻島を訪ねたことがある。大学の同級生が北海道出身で、地元で中学校の先生になり、奥尻島の中学校に赴任していた時に、「遊びにおいでよ」と声をかけてくれて、旅行に行ったのだ。羽田から飛行機で函館に飛び、そこから島への一日一往復しかない便で奥尻に降り立った。友だちの仕事が終わるのを待っている間に島内をぶらぶらしていたら、津波の犠牲者を弔う慰霊碑を見つけた。その時、「ああ、そういえばそんなことがあったな」と、神戸の地震より少し前にあった北海道の地震津波のことを思い出した。そして、頭をがつんと殴られたような気分になった。何だ、僕だって忘れているじゃないか。
 人っていうのは、本当に忘れっぽい生き物なんだなあと思う。それを悪いことだとか、駄目だとかという風には思わない。忘れた方がいいような辛いこともあるだろう。重苦しい記憶ほど忘れがたいものではあるけれど、ただ、それでも覚えておかなくてはいけないこともある。だから人は、石に言葉を刻んだり、一年に一度、日を決めて祈ったりするのかもしれない。

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 ルミナスは僕の中で、地震の記憶と結びついているモニュメントのひとつだ。地震のことは、生涯忘れることはないだろうけど、その記憶に紐付けられたものがひとつ、姿を消してしまうかもしれないのは、寂しい。
 今日もニュースで、新たなコロナの犠牲者の情報が報じられている。辛いことだ。この辛さを、いつかは忘れてしまいたいと思う。同時に、覚えていなければならないとも思う。コロナの嵐が過ぎ去った後、僕たちが記憶と記録とともに残すべきものはなんだろうか。近頃よく、そんなことを考える。